人間の相撲と同様、前頭から横綱まで番付がある。相撲の場合、横綱と前頭が対戦して前頭が勝つ、ということもあるが、闘牛ではありえない。横綱は横綱、大関は大関、同じ格付けで闘う。もし仮に横綱と前頭を対戦させたとしても勝負にならない。闘牛は八百長なしの真剣勝負の世界なのである。
勝ち方、敗け方にもよるが、一度出場すると、次回出場までは一定の休養期間が置かれ、手ひどい敗け方をすると、長期間にわたり出場が見合わされる。敗けを続けたり、再起不能の痛手を受けた場合は廃牛となる。1千万円もの高額で購入した名牛が、一瞬にして廃牛に転落ということもありうる。
闘牛は残酷、という声もあるが、闘うのは本能の命ずるところであり、年に何回か出場するだけで、ふだんはのんびり暮らす。しかも、善戦する限りは長生きできるのであるから、牛としては恵まれているともいえよう。
相撲には賞金が出るが、闘牛では「給金」とよばれるファイトマネーが支給される。全国的に金額はまちまちであるが、宇和島は比較的安く、しかも敗けた方の牛に多く支払われる。勝牛4割、負牛6割と決まっているが、これには敗けた方の牛主に対する慰めの意味があり、宇和島ならではのうるわしき伝統である。
牛に寄り添い牛を操る、勝利に導くために介助する、こういう者のことを勢子と呼ぶ。勢子の形態は各地で異なり、牛1頭に1人、交代なしというのが隠岐。新潟では勝負をつけず、引き分けにし、この理由は闘牛がこの地方では神事であるためだが、引き分けが前提のため、勢子は一頭の牛に13人まで同時につくことができ、牛を分ける際の人間対牛の攻防がみものとなる。
牛1頭に勢子1人を原則とし、勢子が次々と交代するのは宇和島、徳之島、沖縄である。勢子は闘牛に欠かせないものであり、危険と隣り合わせの「仕掛け人」である。
現在、牛は農耕用に使役されることはない。牛は酪農牛を除いては、食用である。闘牛用の牛も同じ和牛であるが、去勢していない牡牛で、牛の中のエリートといえよう。子牛選びの段階でふるいにかけられ、さらに毎日のトレーニングで強い牛へと成長する。日々、歩かせて足腰を鍛える。歩行運動の途中、土の露出した山の斜面に連れて行くと、牛は斜面を角で突く。首・肩の筋力トレーニングであり、角さばきや首・肩の受け返し等、技の訓練でもある。
飼料も重要で、細心の注意のもとに適量を与える。出場前には、飼育者それぞれが工夫した特別食が与えられる。数日前からは減食させ、牛舎から出さず、これによって闘争心をかき立てることもあり、直前には生卵、マムシ酒、焼酎、緑茶、ビール、特製ジュース等を飲ませて興奮をあおることもある。
最初から鼻綱なしで格闘させるならわしは新潟、宇和島である。調子が出てきた頃を見計らって鼻綱を切るのが徳之島、沖縄。最後まで鼻綱を付けたままという例外的なやり方は隠岐で、後鳥羽上皇にご覧いただく際の危険防止策の名残りであるとも伝えられる。
闘牛の武器である角。隠岐では古来より、子牛の頃から角の先端に開けた穴に針金を通し、内側に曲げることで攻撃力を高める工夫が行われ、引き分けを前提とする新潟では自然のままとしている。手を加えても牛の角は各牛で異なり、宇和島地方ではその形状によって「タチケン」「ノケ」「マルマゲ」「カゴ」などと呼んでいるが、角の形状も各地の牛主の要求によって変わる。
また、肥育技術の向上によって牛が年々大型化し、1トンを超える牛が珍しくなくなり、宇和島市営闘牛場は平成3年に土俵直径を16mから20mに拡張したが、角にしても体躯にしても、近年かなりの変化を見せている。
年齢は歯で数える。牛には前歯が下顎部にしかなく、2歳頃までは乳歯が8本揃っており、加齢とともに2本ずつ抜ける。すなわち、2歳…乳歯8本「マルクチ」、3歳…6本「ムコウギリ」、4歳…4本「カミワケ」、5歳…2本「ワキイチ」、6歳…0本(永久歯となる)「コババライ」、というように判別される。闘牛の現役年齢はおおむね3歳から10数歳であるが、7~8歳が最円熟期である。
飼育者(牛主)の職業は、農業や畜産業はもちろん、漁業、水産養殖業、建設業、運送業、飲食業、会社員等々、さまざまである。自ら直接飼育している者、預託している者、いずれも闘牛飼育は赤字前提の趣味(道楽)であり、闘牛をこよなく愛していなければ成り立たない世界である。
牛の名前には牛主の姓がそのまま命名されることが多く、複数飼育者の場合は番号(二号、三号)や牛の特徴(カゴ、マルマゲなど角の形状、モン、ベロ赤など外見的特徴)がサブネームとして付けられる。会社名、職業名、屋号等が命名されることもある。人間の相撲に倣って「谷風」のようなしこ名を与える場合もある。「弁慶」「機関銃」「天下一」「方因坊」「大三元」「大王」等々。また、闘牛は転売されることが多いので、識別のため前のオーナーの名前が「元○×」と添記されることもある。
珍名・奇名もあり、宇和島では「原子力」「鉄腕アトム」などがあったが、徳之島はさらに大胆で、「仮面ノリダー」「パンダ」などがある。
日本各地の闘牛にはそれぞれ由来(歴史的背景)が伝承されている。隠岐の「牛突き」は、承久3年、隠岐・中ノ島に配流された後鳥羽上皇を慰めるために始まったといわれ、西郷町はこれを起源としている。隠岐の五箇村は「一夜ケ嶽神社」の、都万村は「檀鏡神社」の、いずれも奉納行事として古くから大会が開催され、今に伝えられている。新潟県小千谷市、同山古志村の場合は、山間村郷の春の祭りの伝統行事であり、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』にも登場する。塩を牛の背に乗せ北上山地を越えて盛岡方面に運んでいた江戸時代、先頭に立つ牛を決めるため牛を突き合わせたのが始まりである、とするのは岩手県山形村。鹿児島県の徳之島(徳之島町、天城町、伊仙町)では、江戸時代から全島の闘牛大会が行われていたことが『南島誌』に記載され、砂糖地獄に苦しむ農民が税の完納を祝って開催した島民唯一の娯楽であるとしている。沖縄県は全島的に闘牛が盛んで、具志川市は、1400年代に始まり、娯楽形態としたのは明治中期であるとし、石川市もほぼ同じであるが、戦後の闘牛復活の地は石川市であるという。